2005年 03月 26日 ( 1 )

「壬生」

スグニ壬生ヘ出ル(毛武ト云村アリ)。此間三リトイヘドモ、弐里余。
一 壬生ヨリ楡木ヘ二リ。
   ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。


(曾良随行日記より)




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(吉次ガ塚)

室の八島から小倉川を渡って壬生へ入り、鹿沼方面に向かって3km程行くと稲葉の交差点がある。そこにはセブンイレブンがありその裏の田んぼの中に「吉次が塚」がひっそりと立っている。
また、ここから100mほど北に「稲葉の一里塚」がある。

金売り吉次
吉次(信高)は、金商いのために奥州と京を往き来した著名な黄金商人。金売吉次の本名は吉次信高(きちじのぶたか)、吉次は毎年奥州に赴き砂金を仕入れての商売をしていた。この吉次との出会いがきっかけで義経は奥州平泉に赴くことになる。承安4年(1178年)に、吉次兄弟は京からの途中、群盗藤沢太郎入道等に襲われ白河で殺害されたと伝えられる。
この地には源義経が奥州平泉に下る際、同行していた金売吉次が当地で病で倒れて死んだという伝承がある。しかし吉次の墓は全国に数ヶ所あるという。


吉住吉次之墓 (同所にあり)
吉次の墓石は丸形にて径二尺石なり此石古しへ夜ことに人の往来せるをかならず送り又小雨の夜に至りては猶更なれば農民畏れて之囲夫より後は更に送ることなしと云農夫の物語なり。
  「壬生領史略」より





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(親抱きの松)

「吉次が塚」より2kmほど行き、稲葉の宿より西へ200mほど入ると伝説として伝えられている「親抱きの松」が田んぼの中に見えてくる。そこには二本の松の木があってお互いが抱き合うように立っている。芭蕉一行はここを存じていたのだろうか。
「親抱きの松」の記述が林不忘・元禄十三年の中に書いてあります。

林不忘・元禄十三年



親抱の松 (円宗寺より八九十間北の方あり)
枝葉繁茂して常盤の色あり実に千秋の齢を保名松なり
松の由来畑の中に大小二株有相擁する形をなす嬢擁の松と云う伝ふ宇都宮九代下野守公綱(後に左少将冶部大輔)南帝の御方して後醍醐天皇の論旨を賜り中院中将定楠正成か告文あるに依りて京都に馳上がる公綱か被官
  「壬生領史略」より
 ( 「壬生領史略」は嘉永三年(1850)に碧山季美によって編纂された壬生領の地誌書)





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(解説)






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芭蕉一行は左手にこの光景を見ながら鹿沼から日光へと向かったのであろう。







(壬生町稲葉付近から見た日光連山)


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by windmay | 2005-03-26 00:00 | 壬生