2005年 04月 04日 ( 1 )

「鹿沼」

一 ニれ木ヨリ鹿沼ヘ一リ半。
一 (昼過ヨリ曇。)
   同晩鹿沼(ヨリ火バサミヘ貳リ八丁。)ニ泊ル。


                 (曾良随行日記より)




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奈佐原神社(文楽とは関係ありません)



壬生より楡木へ向かう道の両側には、昔の並木の名残であろうか年功のたった杉や桧がところどころに立っている。そして楡木町の追分を過ぎて暫らく行くと奈佐原と言う所がある。
ここには文化年間(1804~1817)より伝えられた人形浄瑠璃、奈佐原文楽が継承されている。












奈佐原文楽

文化年間(1804~1817)には、一座があったものと思われます。当時の奈佐原は日光西街道・例幣使街道の宿場として栄え、遊芸人の往来も見られ、これらの影響を受けて、地元の同好者によって始められたようです。その後衰微しましたが、明治時代に大阪文楽座主吉田国五郎の門弟で、人形遣いの名人吉田国造(後の西川小伊三郎)が奈佐原に居住し、人形の操作や浄瑠璃の指導に当たるとともに、浄瑠璃は大坂文楽座を退座した竹本蔦太郎が楡木に住んで指導に当たりました。門弟の一人臼井巳之作(豊吉)は昭和37年(1962)12月14日、県の無形文化財に指定されましたが、同45年死去し、現在は地元の同好者によって演じられています。座員一同芸に励み、その技量の評価も高く、なかでも「絵本太功記十段目」、「阿波の鳴門順礼歌の段」、「奥州安達が原三段目」はお家芸となっています。
(鹿沼市のHPより)






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光太寺 「笠塚」



東武日光線、新鹿沼駅より北西の山の際に光太寺というお寺がある。
急な階段を上りつめると山に張り付いたように立派な本堂が建っている。本堂の脇には芭蕉の死後、寺に残された芭蕉の破れ笠を埋めて供養したといわれている 「笠塚」 があり碑面には 「芭蕉居士 嵐雪居士」 の八文字が刻み込まれている。
境内の東端に建つ鐘撞き堂からは東に広がる鹿沼市外が一望できる。





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笠塚の説明書







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光太寺の西側にある『富士山公園』『ふじやまこうえん』から見た楡木方面。




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光太寺の西側にある『富士山公園』『ふじやまこうえん』から見た鹿沼市外。




「曾良随行日記」の中で鹿沼については 鹿沼ニ泊ル。 とだけの記述。
何処に宿泊したのか分かっていない。ある書物によると中町で元名主の都賀屋に泊ったとすれ説。芭蕉の笠塚のある光太寺に泊ったとする説。またあるお宅に泊ったとする説があると言う。
「曾良随行日記」の中にある 辰上剋、宿ヲ出。 の記述から推測すると宿屋に泊ったのではないかと云われてもいる。未だこの説は解明されていないそうである。
はたして芭蕉達は何処へ泊ったのだろうか。笠塚の説明には光太寺へ泊ったとあるが。
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by windmay | 2005-04-04 00:00 | 鹿沼