<   2005年 03月 ( 8 )   > この月の画像一覧

「壬生」

スグニ壬生ヘ出ル(毛武ト云村アリ)。此間三リトイヘドモ、弐里余。
一 壬生ヨリ楡木ヘ二リ。
   ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。


(曾良随行日記より)




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(吉次ガ塚)

室の八島から小倉川を渡って壬生へ入り、鹿沼方面に向かって3km程行くと稲葉の交差点がある。そこにはセブンイレブンがありその裏の田んぼの中に「吉次が塚」がひっそりと立っている。
また、ここから100mほど北に「稲葉の一里塚」がある。

金売り吉次
吉次(信高)は、金商いのために奥州と京を往き来した著名な黄金商人。金売吉次の本名は吉次信高(きちじのぶたか)、吉次は毎年奥州に赴き砂金を仕入れての商売をしていた。この吉次との出会いがきっかけで義経は奥州平泉に赴くことになる。承安4年(1178年)に、吉次兄弟は京からの途中、群盗藤沢太郎入道等に襲われ白河で殺害されたと伝えられる。
この地には源義経が奥州平泉に下る際、同行していた金売吉次が当地で病で倒れて死んだという伝承がある。しかし吉次の墓は全国に数ヶ所あるという。


吉住吉次之墓 (同所にあり)
吉次の墓石は丸形にて径二尺石なり此石古しへ夜ことに人の往来せるをかならず送り又小雨の夜に至りては猶更なれば農民畏れて之囲夫より後は更に送ることなしと云農夫の物語なり。
  「壬生領史略」より





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(親抱きの松)

「吉次が塚」より2kmほど行き、稲葉の宿より西へ200mほど入ると伝説として伝えられている「親抱きの松」が田んぼの中に見えてくる。そこには二本の松の木があってお互いが抱き合うように立っている。芭蕉一行はここを存じていたのだろうか。
「親抱きの松」の記述が林不忘・元禄十三年の中に書いてあります。

林不忘・元禄十三年



親抱の松 (円宗寺より八九十間北の方あり)
枝葉繁茂して常盤の色あり実に千秋の齢を保名松なり
松の由来畑の中に大小二株有相擁する形をなす嬢擁の松と云う伝ふ宇都宮九代下野守公綱(後に左少将冶部大輔)南帝の御方して後醍醐天皇の論旨を賜り中院中将定楠正成か告文あるに依りて京都に馳上がる公綱か被官
  「壬生領史略」より
 ( 「壬生領史略」は嘉永三年(1850)に碧山季美によって編纂された壬生領の地誌書)





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(解説)






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芭蕉一行は左手にこの光景を見ながら鹿沼から日光へと向かったのであろう。







(壬生町稲葉付近から見た日光連山)


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by windmay | 2005-03-26 00:00 | 壬生

句碑(県南地区3)

妙音寺
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”靜さや岩にしみ入る蝉の聲 ”





嘉永三年(1850)5月
清水勝之建立
松見堂筆
佐野市字大町
日蓮宗妙音寺





泉應院
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”つく鐘もひゝくやう也せみの聲”
              はせを翁





安政三年(1856)10月
野辺亭建立
螢雪筆
佐野市富士町字本社
曹洞宗泉應院





吉祥院
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”灌仏や皺手合する数珠の音 ”




佐野市
吉祥院





定年寺
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芭   蕉   翁
” 子規大竹藪をもる月夜 ”





文化十五年(1818)
呉竹 嗽月 玉壺建立
足利市助戸町三丁目
曹洞宗定年寺





関東五社稲荷神社
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”松すきをほめてやかせの薫る音 ”




佐野市大栗町
関東五社稲荷神社
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by windmay | 2005-03-24 20:40 | 句碑(県南地区2)

句碑(県南地区2)

唐沢山城
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”城跡や古井の清水先問む”




安政三年(1856)
荻野板湖筆
佐野市富士町唐沢山城跡
大炊井戸畔







唐沢山
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”初櫻をりしもけふはよき日也”




元治元年(1864)春
高松十吉正親 大室為右衛門親吉建立
佐野市富士町唐沢山





弁天池畔
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”此あたり目に見ゆるものみな凉し”




寛政五年(1793)8月
其風建立
佐野市出流原町
弁天池畔





種徳院
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”鐘つかぬさとは何をか春の暮”




寛政四年(1792)5月
千之 双飛 百爾 由之 魯十建立
安蘇郡田沼町戸奈良
曹洞宗万年山種徳院
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by windmay | 2005-03-24 00:00 | 句碑(県南地区2)

句碑(県南地区1)

野木神社
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芭   蕉   墳
”一疋のはね馬もなし河千鳥”



宝暦十年(1760)11月3日
・雨建立
下都賀郡野木町野木
野木神社参道




法音寺
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芭   蕉   翁
”道はたのむくけは馬に喰れけり”



安永九年(一七八〇)八月
今日庵安袋門人秋元李叟建立
下都賀郡野木町友沼
真言宗豊山派法音寺





繁桂寺
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”名月や池をめくりて夜もすから ”
                芭蕉翁



享和年間=享和三年(1803)推定
夏目成美筆
下都賀郡藤岡町藤岡字新町
曹洞宗繁桂寺






藤岡神社
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”市人にいて是うらむ雪の笠”





弘化二年(1845)9月
横山仙吉らの建立
下都賀郡藤岡町藤岡字城山
藤岡神社






高勝寺
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”父母のしきりにこひし雉子の聲”
”野を横に馬ひきむけよほとゝきす”




文久元年(1861)
紫扇 景彦 北堂 湖仙らの建立
雪中庵蓼太筆
下都賀郡岩舟町靜
天台宗岩舟山蓮華院高勝寺
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by windmay | 2005-03-21 11:19 | 句碑(県南地区1)

「飯塚」

一 廿九日 辰ノ上尅マヽダヲ出。
 一 小山ヘ一リ半、小山ノヤシキ右ノ方ニ有。
 一 小田ヨリ飯塚ヘ一リ半、木澤ト云所ヨリ左ヘ切ル。
 一 飯塚(此間姿川越ル。)ヨリ壬生ヘ一リ半、飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキ
   レ、川(小クラ川)原ヲ通リ川ヲ越、ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘ
   カヽリ、室ノ八嶋ヘ行。(乾ノ方五町バカリ、毛武ト云村アリ。)スグニ壬生ヘ出ル。
   此間三リトイヘドモ、貳里少余。

                                   (曾良随行日記より)



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飯塚の宿より狭い道を左に入ると小宅に抜ける橋がある。
思川に架かるこの橋は乗用車が通れるくらいの幅の狭い仮橋である。




(飯塚地内、思川堤より仮橋を望む)






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思川の堤より北西をみると遠くに日光連山が見渡せる。
その下方に室の八島のある大神(おおみや)神社の森が見える。
芭蕉はここより更に上流から川を渡り、河川敷を歩きながら総社河岸へと向かったのではないだろうか。



(飯塚地内、思川堤より室の八島方面、日光連山を望む)





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曾良随行日記に 「川(小クラ川)原ヲ通リ川ヲ越、ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘ」 とある。
思川(小倉川)を渡った芭蕉はこの惣社河岸に上がりここから大神神社へと向かったのであろう。
ここは栃木市で分譲した工業団地の一角にあり、ここの北側には昭和初期に起きた猟奇事件の安部定が収監されていた栃木女子刑務所がある。


(惣社河岸跡)
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by windmay | 2005-03-19 23:23 | 飯塚

「室の八島」

室の八嶋に詣す。同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。
無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。
又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。

                                            (奥の細道より)



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参道の両側に寄進された赤い気の灯篭の中を行くと正面に大神神社の社殿が見えてくる。
広い境内は年功のある太い杉の木に囲まれ凛とした神聖な霊気に包まれている。
右手に神楽殿、左手には室の八島といわれる池が広がり、その入り口には芭蕉の句碑がある。
大神神社は、今から千八百年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀し創立したと伝えられ、祭神は大物主命です。
惣社は、平安時代、国府の長官が下野国中の神々にお参りするために大神神社の地に神々を勧請し祀ったものです。





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室の八島を尋ね詣づ。木立ふりて神さびたるさまいと殊勝なり。しげれる森の内にいかなる人の作れるにや、回り回りて池を掘り、池の中に島と覚しき八つ残したり。八島といふ名にめでてなせしなるべし。年久しき業とも見えず。おかしき事を構へたるものかな。
                                  元文三年(1738)山崎北華  「蝶の遊」






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”糸遊に結つきたる煙哉” (芭蕉の句碑)




曽良の「俳諧書留」には芭蕉が室の八島で詠んだと思われる五句が記されている
糸遊に結つきたる煙哉   翁
あなたふと木の下暗も日の光
入かゝる日も糸遊の名残哉
鐘つかぬ里は何をか春の暮
入逢の鐘もきこえず春の暮

けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ平安時代以来東国の歌枕として都まで聞えた名所でした。
幾多の歌人によって多くの歌が残されています。

朝霧や室のやしまの夕けふり                  (連歌師・宗長)
いかでかは思ひありとも知らすべき室の八嶋の煙ならでは  (藤原実方)
人を思ふ思ひを何にたとへまし室の八島も名のみ也けり   (源重之女)
下野や室の八島に立つ煙思ひありとも今日こそは知れ    (大江朝綱)
煙たつ室の八嶋にあらぬ身はこがれしことぞくやしかりける  (大江匡房)
いかにせん室の八島に宿もがな恋の煙を空にまがへん    (藤原俊成)
恋ひ死なば室の八島にあらずとも思ひの程は煙にも見よ   (藤原忠定)
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by windmay | 2005-03-18 20:47 | 室の八島

「間々田」


一 廿八日マヽダニ泊ル。カスカベヨリ九里。
前夜ヨリ雨降ル。辰上尅止ニ依テ宿出。
間モナク降ル。午ノ下尅止。
此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入。
廿九日辰ノ上尅マヽダヲ出。


(曽良随行日記より)


一 廿八日間々田に泊る。春日部より九里。
前夜より雨降る。午前7時半頃雨止んで宿を出る。
間もなく降る。午後12時半頃止む。
この日栗橋の関所を通る。往来手形も断りも入(い)らず。
廿九日午前7時半ごろ間々田を出る。


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(間々田八幡宮)




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”古池や蛙飛こむ水の音  芭蕉翁”
(芭蕉の句碑  橋の左手奥にあり)





嘉永六年(一八五三)九月
土地の人田口久七爲親建立
小山市間々田
間々田八幡宮
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by windmay | 2005-03-18 00:52 | 間々田

序文



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序文


月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、  草の戸も住替る代ぞひなの家  面八句を庵の柱に懸置。


旅たち


弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の嶺幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。

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芭蕉の句碑  (栃木県黒羽町大雄寺)
芭蕉出立の句   行春や鳥啼魚の目は泪

参考文献として「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」より一部記載
http://www.bashouan.com


ブログ作成者 「五月の風」 2005/03/17


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by windmay | 2005-03-17 00:00 | 序文