室の八嶋に詣す。同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。
無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。 又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。 (奥の細道より) 参道の両側に寄進された赤い気の灯篭の中を行くと正面に大神神社の社殿が見えてくる。 広い境内は年功のある太い杉の木に囲まれ凛とした神聖な霊気に包まれている。 右手に神楽殿、左手には室の八島といわれる池が広がり、その入り口には芭蕉の句碑がある。 大神神社は、今から千八百年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀し創立したと伝えられ、祭神は大物主命です。 惣社は、平安時代、国府の長官が下野国中の神々にお参りするために大神神社の地に神々を勧請し祀ったものです。 室の八島を尋ね詣づ。木立ふりて神さびたるさまいと殊勝なり。しげれる森の内にいかなる人の作れるにや、回り回りて池を掘り、池の中に島と覚しき八つ残したり。八島といふ名にめでてなせしなるべし。年久しき業とも見えず。おかしき事を構へたるものかな。 元文三年(1738)山崎北華 「蝶の遊」 ”糸遊に結つきたる煙哉” (芭蕉の句碑) 曽良の「俳諧書留」には芭蕉が室の八島で詠んだと思われる五句が記されている 糸遊に結つきたる煙哉 翁 あなたふと木の下暗も日の光 入かゝる日も糸遊の名残哉 鐘つかぬ里は何をか春の暮 入逢の鐘もきこえず春の暮 けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ平安時代以来東国の歌枕として都まで聞えた名所でした。 幾多の歌人によって多くの歌が残されています。 朝霧や室のやしまの夕けふり (連歌師・宗長) いかでかは思ひありとも知らすべき室の八嶋の煙ならでは (藤原実方) 人を思ふ思ひを何にたとへまし室の八島も名のみ也けり (源重之女) 下野や室の八島に立つ煙思ひありとも今日こそは知れ (大江朝綱) 煙たつ室の八嶋にあらぬ身はこがれしことぞくやしかりける (大江匡房) いかにせん室の八島に宿もがな恋の煙を空にまがへん (藤原俊成) 恋ひ死なば室の八島にあらずとも思ひの程は煙にも見よ (藤原忠定) #
by windmay
| 2005-03-18 20:47
| 室の八島
一 廿八日マヽダニ泊ル。カスカベヨリ九里。 前夜ヨリ雨降ル。辰上尅止ニ依テ宿出。 間モナク降ル。午ノ下尅止。 此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入。 廿九日辰ノ上尅マヽダヲ出。 (曽良随行日記より) 一 廿八日間々田に泊る。春日部より九里。 前夜より雨降る。午前7時半頃雨止んで宿を出る。 間もなく降る。午後12時半頃止む。 この日栗橋の関所を通る。往来手形も断りも入(い)らず。 廿九日午前7時半ごろ間々田を出る。 (間々田八幡宮) ”古池や蛙飛こむ水の音 芭蕉翁” (芭蕉の句碑 橋の左手奥にあり) 嘉永六年(一八五三)九月 土地の人田口久七爲親建立 小山市間々田 間々田八幡宮 #
by windmay
| 2005-03-18 00:52
| 間々田
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、 草の戸も住替る代ぞひなの家 面八句を庵の柱に懸置。 弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の嶺幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。 行春や鳥啼魚の目は泪 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。 芭蕉出立の句 行春や鳥啼魚の目は泪 参考文献として「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」より一部記載 http://www.bashouan.com ブログ作成者 「五月の風」 2005/03/17 #
by windmay
| 2005-03-17 00:00
| 序文
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